なぜAIエージェントはすぐに「忘れてしまう」のか:背景と課題整理
生成AIブームの中で、「AIエージェント」という言葉を耳にする機会が増えました。チャットボットのように会話するだけでなく、コードを書いたり、ファイルを編集したり、ウェブアプリを組み立てたりと、長時間にわたって作業を続けてくれる存在として期待されています。ところが現実には、少し長めのタスクを任せると、途中で指示を忘れたり、急に変な挙動をしたりと、「長時間走らせると不安定になる」という声が絶えません。
根本原因としてよく挙げられるのが「コンテキストウィンドウの制限」です。大規模言語モデル(LLM)は、一度に読めるテキストの量が決まっています。これは、AIが持っている「作業用ホワイトボード」の大きさのようなもので、そこに入りきらない過去の指示や会話は、どうしても抜け落ちてしまいます。大きなプロジェクトほど、仕様・進捗・エラーログ・メモなど、すぐにホワイトボードが埋まってしまうイメージです。
人間の開発現場でも、引き継ぎドキュメントがなく、口頭の会話だけでプロジェクトを続けると、時間が経つほど「あれ、元々どういう仕様だっけ?」となりがちです。AIエージェントでも似たことが起きており、長時間動かすほど「元の目的」や「前回までの判断」を見失いやすくなります。その結果、無関係な変更を加えたり、まだ終わっていないのに「完了です」と言ってしまったりと、ビジネスで使うには不安な振る舞いにつながってしまいます。
この問題を解決するために、ここ1〜2年でさまざまな「エージェント用のメモリフレームワーク」が提案されてきました。たとえば、LangChainのLangMem、Memobase、OpenAIのSwarmなどは、コンテキストウィンドウを超えて情報を保管・再利用するための仕組みです。さらに、MempやNested Learning Paradigmといった研究フレームワークも登場し、「どうやってエージェントに長期記憶を持たせるか」がひとつの大きな研究テーマになりつつあります。
しかし、選択肢が増えた一方で、「どのアプローチが実務で安定して動くのか」「結局、何を採用すればいいのか」が分かりづらい状況でもあります。そこで登場したのが、AnthropicがClaudeエージェントSDK向けに提案した新しいアーキテクチャです。これは「マルチセッション」で長時間タスクを扱うための具体的な答えの一つであり、実務での利用をかなり意識した設計になっています。
長時間タスクでAIがつまずく「2つの失敗パターン」
Anthropicが注目したのは、「なぜエージェントは大規模なタスクで失敗するのか?」というごく実務的な問いでした。たとえば、「Claude.aiのクローンとなるWebアプリを作って」というようなざっくりとした指示を出したとき、理想的には要件整理から実装、テストまでを少しずつ進めていってほしいところです。しかし、モデルがそのまま動くと、思ったようにはいきません。
同社の観察によると、典型的な失敗パターンは大きく2つあります。ひとつは「一気にやり過ぎて沈没するタイプ」です。AIが真面目すぎる優等生のように、「要件定義も実装もテストもデプロイも全部一度にやろう」としてしまい、コンテキストがパンパンになって途中で重要な情報を失います。その結果、「さっきどのファイルをどう変えたか」が曖昧なまま次のステップに進み、後続のセッションにきれいな引き継ぎを渡せません。
もうひとつは、「途中で満足してしまうタイプ」です。ある程度の画面やAPIが動くようになると、エージェントは「すでにそれっぽい動作をしている」と判断し、「これで完成です」と宣言してしまいます。人間から見れば、まだバグも多く、エッジケースへの配慮も不十分で、「これからが本番」という状態でも、エージェント自身はゴールに到達したと勘違いしてしまうわけです。
私自身、実際に業務でエージェント的な仕組みを試したとき、「中盤までは優秀だけれど、最後の詰めで急に雑になる」ような振る舞いを何度も見ました。仕様の8割くらいはそれっぽく実装できているのに、肝心のエラーハンドリングやテスト、細かなUXの配慮が抜けてしまうイメージです。「途中まではすごいのに、プロダクション品質には届かない」という感覚を持った方も多いのではないでしょうか。
Anthropicはこうした失敗パターンをきちんと言語化したうえで、「そもそも長時間タスクを単一のエージェントに丸投げする設計そのものに無理があるのでは?」と考えました。そこで出てくるのが、「役割を分けて、セッションをまたいで少しずつ進める」というアプローチです。人間の開発現場でも、大規模プロジェクトを一人のエンジニアに丸投げせず、役割分担と段階的な進行で進めるのが普通です。AIエージェントにも同じパターンを適用しようという発想です。
Anthropicの解決策:イニシャライザエージェント+コーディングエージェントの二段構え
AnthropicがClaudeエージェントSDK向けに提案したのは、「イニシャライザエージェント」と「コーディングエージェント」という二つの役割を組み合わせた設計です。ざっくり言うと、イニシャライザがプロジェクトの土台づくりと記録係を担当し、コーディングエージェントが小さな一歩ずつ実装を進めていく、という分担になります。ここで重要なのは、「一度のセッションで完結させようとしない」ことと、「次のセッションへ渡すための明確な痕跡(アーティファクト)を残す」ことです。
イニシャライザエージェントは、最初にプロジェクトの環境を整えます。具体的には、ディレクトリ構成を決めたり、最初の設定ファイルやテンプレートコードを用意したりしながら、「どのファイルが何のために追加されたのか」「過去のセッションで何が行われたのか」といった情報をログとして残していきます。これにより、あとから参加するコーディングエージェントが、過去の経緯を一から読み返さなくても、必要なメタ情報にアクセスできるようになります。
一方のコーディングエージェントは、各セッションで「小さな前進」に集中するよう設計されています。「このセッションではログイン機能だけ」「次のセッションではプロフィール編集画面だけ」というように、あらかじめ決められた範囲の中で、着実に進捗を積み上げていきます。その際、単にコードを書くのではなく、どのファイルを変更し、どのテストを追加し、どの問題を解決したのかを、構造化された形で記録として残します。これが次のセッションの「スタート地点」として利用されるわけです。
イメージとしては、イニシャライザが「プロジェクトマネージャー兼ドキュメント係」、コーディングエージェントが「手を動かすエンジニア」という分担です。人間のチーム開発でも、進捗を整理してチケットを切る人と、それを見て実装する人が分かれていると、長期プロジェクトでも迷子になりにくくなります。同様に、AI側でも役割を分けることで、「やり過ぎて沈没する」「途中で満足してしまう」といった失敗パターンを避けやすくしているわけです。
さらに、この二段構えの設計は「マルチセッション」で動くことを前提にしています。つまり、エージェントが一度に抱え込めるコンテキストの限界を認めたうえで、「セッションとセッションの間をつなぐ情報の橋」をどう設計するかに全振りしていると言えます。これは、「コンテキストウィンドウをひたすら巨大化して解決する」という方向とは違う、現実的なアプローチです。ハードウェアやモデルサイズの制約を踏まえたうえで、ソフトウェアアーキテクチャで乗り切ろうとしている、とも言えます。
優秀なエンジニアをお手本にした「小さく進めて、ちゃんと残す」設計思想
Anthropicは、この二段構えのアプローチについて、「優秀なソフトウェアエンジニアが日々やっていることから発想を得た」と説明しています。たしかに、経験のあるエンジニアほど、「一度に全部やろうとしない」「必ずテストやメモを残してから帰る」という習慣を持っています。これは、人間の記憶が完璧でないことを前提にした行動でもありますし、チームで開発するうえでのマナーでもあります。
たとえば、私が関わったプロジェクトでも、優秀なエンジニアほど「今日の変更点」「未解決のTODO」「次にやるべきこと」をチケットやコメントに残してから作業を終えます。翌日、自分や別のメンバーが続きを担当するとき、そのメモがあるだけで、立ち上がりのスピードがまったく違います。逆に、どれだけ腕のいい人でも、メモもテストも残さずに帰ってしまうと、数日後には「この変更、何のためだっけ?」と混乱を招きかねません。
今回のClaudeエージェントSDKの設計では、この「小さく進めて、ちゃんと残す」という人間の良い習慣を、そのままエージェントに組み込もうとしています。コーディングエージェントにはテストツールがセットで与えられ、コードだけでなく挙動も確認しながら進めるようになっています。コードを眺めただけでは気づきにくいバグも、テストを通すことで早い段階で発見できるようになり、「とりあえず動くが、微妙におかしい状態」のまま進行してしまうリスクを下げているわけです。
この発想は、エージェントを「魔法の黒箱」として扱うのではなく、「人間と同じく不完全な労働者だけれど、プロセス設計を工夫すれば十分に頼れる存在になる」という現実的な見方に立っています。完璧な一発回答を期待するのではなく、短いサイクルで少しずつ前に進め、テストと記録で品質を担保する。これはアジャイル開発や継続的インテグレーションの思想とも相性がよく、エージェント活用を既存の開発プロセスに自然に組み込むヒントにもなります。
「AIに全部丸投げする」ではなく、「人間のベストプラクティスを機械に移植する」という視点で見ると、今回のAnthropicの取り組みは、単なる機能追加以上の意味を持っているように感じられます。特に開発者にとっては、「自分がやっている良い習慣をどうやってエージェントに真似させるか?」という観点で設計を見直すきっかけにもなるでしょう。
既存のメモリフレームワークと比べたときの立ち位置と特徴
ここで気になるのが、「LangMemやSwarmなど、他のメモリ系ソリューションと何が違うのか?」という点だと思います。多くの既存フレームワークは、特定のLLMに依存しすぎないように設計されており、「どのモデルでも使える汎用メモリレイヤー」を目指しています。会話履歴やドキュメントをベクトルDBなどに保存し、必要に応じて検索し直すことで、コンテキストウィンドウをまたいだ「なんちゃって長期記憶」を実現するイメージです。
一方で、Anthropicのアプローチは、ClaudeエージェントSDKという特定の環境に対してかなりチューニングされています。エージェントが扱うのは主にコードやファイル構成、テスト結果などの「開発プロジェクトの状態」です。そのため、「どの会話を覚えておくか」というよりも、「どのファイルがどの段階でどう変化してきたか」「どのタスクが完了していて、どこから再開すべきか」といった情報を重視しています。メモリといっても、よりプロジェクト管理寄りの性格が強いと言えるでしょう。
また、研究フレームワークとして提案されているMempやNested Learning Paradigmなどは、より抽象的なレベルで「エージェントが経験からどう学習するか」を探る試みです。これらは長期的には非常に重要な方向性ですが、「明日から自社の開発ワークフローに組み込みたい」というニーズには、まだ距離がある場合も多いです。その点、Anthropicの提案は「フルスタックWebアプリの開発」を具体的なユースケースとして検証されており、現場目線での実験結果が蓄積されつつあります。
もちろん、どのアプローチが「絶対に正しい」という結論はまだ出ていません。Anthropic自身も、汎用のコーディングエージェント一体型が良いのか、今回のようなマルチエージェント構成が良いのか、今後の研究次第だとしています。ただ、少なくとも「長時間タスクにおける現実的なつまずきポイント」を丁寧に分解し、それに対する具体的な処方箋を提示している点で、この取り組みは非常に実務寄りだと感じます。
読者として意識しておくと良いのは、「どのフレームワークが一番すごいか」よりも、「自分のユースケースではどのタイプのメモリが重要か」という視点です。会話中心のアシスタントなら会話履歴の検索が重要ですし、コード中心のエージェントならファイル構成と変更履歴の管理が重要になります。Anthropicの提案は、後者の「コード中心エージェント」にかなりフォーカスした一例として捉えると理解しやすくなります。
ビジネス現場でどう活かすか:具体的シナリオと今日からできる一歩
では、このような「長時間動いても忘れにくいエージェント」は、実際の現場でどう役立つのでしょうか。記事のデモでは、フルスタックWebアプリ開発が題材になっていますが、応用範囲はもっと広く考えられます。たとえば、社内ツールの継続的な改善、長期にわたるデータ分析プロジェクト、複数月単位で続く研究タスクなど、「一晩で終わらない仕事」ならほとんど候補になります。
具体的なイメージとして、以下のようなシナリオが考えられます。
- 社内の業務システムを少しずつ改善していく「継続改善エージェント」:毎日少しずつコードやUIを改善し、テストとログを残しながら進める。
- 長期の調査・レポート作成を支援する「リサーチエージェント」:文献の収集・要約・構成案の更新を数週間にわたって継続する。
- 金融モデルやシミュレーションを繰り返し更新する「モデリングエージェント」:市場データの変化に応じてモデルを調整し、変更意図と結果を記録していく。
Anthropicは特に、科学研究や金融モデリングのような「長時間かつ高い一貫性が求められるタスク」にも、この設計思想が応用できるだろうと示唆しています。たとえば、研究チームにとっては、エージェントが過去の試行錯誤や失敗例をきちんと覚えていてくれるだけで、「同じ失敗を繰り返さない」という意味で大きな価値があります。
読者の方が今日からできる一歩としては、いきなり複雑なマルチエージェント構成を導入する必要はありません。まずは、今使っているエージェントやチャットボットに対して、「一度にやらせすぎない」「途中経過と次の一手を必ず書かせる」というルールを試すだけでも、挙動が安定することが多いです。たとえば、「このセッションでは◯◯だけやって、最後にやったことと次やることを箇条書きでまとめて」と指示するだけでも、実質的に「人間版イニシャライザ+コーディングエージェント」のような振る舞いをさせられます。
そのうえで、より本格的にエージェントを業務に組み込みたい場合は、「環境を準備する役」と「小さな進捗を積み上げる役」をどう分けるかを設計すると良いでしょう。ClaudeエージェントSDKのような専用フレームワークを使う場合はもちろん、自前でエージェントを構築する場合でも、この考え方はそのまま応用できます。「長時間動くエージェント=特別な魔法」ではなく、「長時間の仕事に耐えるプロセス設計」と捉えると、ぐっと現実的な導入イメージが見えてくるはずです。

